令和6年10月30日、31日、表千家15代御家元・猶有斎(ゆうゆうさい)千宗左宗匠をお迎えして、表千家同門会福島大会(茶会)が会津若松市で開催されました。同門会は表千家の茶の湯修業者が集う組織です。その全国大会は毎年2回開催され数百名が参加しますが、今回の福島大会は参加者が800名を超えるほど盛況でした。それもそのはず……千利休を祖とする三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の茶の湯修業者にとって、会津若松は京都、堺に次ぐ「聖地」といえるほど特別な地なのです。
歴史を紐解けば、千家の茶の湯は幾たびか「危機」に直面しています。なかでも最大の危機が、日本人であれば一度は聞いたことのある「千利休切腹」でした。利休には長子・眠翁道安(みんおうどうあん、1546-1607)がいましたがその系譜は絶え、「千家断絶の危機」を経て正当な後継者として千家の茶の湯を託されたのは、利休の息女を娶った少庵宗淳(しょうあんそうじゅん、1546-1614)でした。三千家の血脈は利休から少庵、利休の孫・元伯宗旦(げんぱくそうたん、1578-1658)へと引き継がれました。
今でこそ「千家再興の功労者」と評される少庵ですが、利休切腹により絶体絶命の危機に陥ります。都から遠く離れた会津に送られ蟄居を命じられたのです。その心中、苦難は察するに余りあります。
当時の会津藩主は、「利休七哲」の筆頭と称された蒲生氏郷(がもううじさと、1556-1595)。織田信長の息女を娶り、武将として、また茶人として名を馳せた彼もまた千家の茶の湯において欠くべからざる人物です。
千家の茶の湯においてかくも重要な人物に縁の深い地であり、しかも当時の茶の湯の中心地から離れた会津若松で催される茶会でどのような「一期一会」があるか……少庵、蒲生氏郷の足跡との出逢いに胸が高鳴ります。
一つ目は、茶室「麟閣」(りんかく)です。
現在、鶴ヶ城(若松城)内で使用される茶室「麟閣」は、少庵が建てたと伝えられます。茅葺の屋根、寄付、腰掛待合、中門、蹲踞、躙口とすべてが「侘び」。麟閣につながる蒲鶴亭(ほかくてい)の床柱(赤松)は少庵が削ったといわれています。
扁額は3ヵ所に掲げられ、表千家14代御家元・而妙斎(じみょうさい)千宗左宗匠(麟閣東側)、裏千家15代御家元・鵬雲斎(ほううんさい)千宗室宗匠(正門上)、武者小路千家14代御家元・不徹斎(ふてつさい)千宗守宗匠(脇門上)によるものです。三千家御家元の扁額が揃うことからも、「麟閣」が特別な茶室であることがわかります。
茶室「麟閣」の由来を聞いて、実際に目にして、鄙びた地で絶望の淵に突き落とされたであろう少庵が、茶の湯の心に沿う日々を送っていたことを想像すると、これほどの苦境でも諦めることなく千家の再起を覚悟していたと感じざるを得ませんでした。会津若松を訪れた際はぜひ訪れていただきたい文化遺産です。
そしてもう一つが、表千家不審菴に伝わる「少庵召出状」(表千家不審菴蔵)です。
千利休切腹後3年を経て、豊臣秀吉の許しを得た徳川家康と蒲生氏郷が連署で少庵に宛てたこの書状(1594年)は、
「(秀吉様の)御意として申し入れます。あなたを召し出されるとの仰せですので、急いで上洛してください。そのことを申し伝えます」
為 御意申 入候、貴所被召出 由 被仰出候間、 急可被罷上候、 為其申越候、恐悦々々、 十一月十三日 家康(花押) 氏郷(花押) 少庵老 |
と書かれています(表千家不審菴HPより)。
利休切腹、後継者の蟄居と一家離散の状態だった千家の再興を意味するもので、表千家不審菴に伝わる非常に大切な書状です。表千家のみならず、裏千家、武者小路千家に連なる茶の湯修業者にとっても、「奇跡のような出来事の証」です。今回特別に「麟閣」の床に掛けてくださった御家元に心より御礼申し上げます。
茶室「麟閣」の床に掛けられた「少庵召出状」を見つめていると、茶の湯にまつわる自らの経験すべてが千利休、少庵からつながっているように感じました。茶の湯に出会えたことへの感謝とともに、史実の重み、歴史に学ぶことの意義を噛みしめる「一期一会」でした。